挑戦、すなわちチャレンジとは、必ず成功すること、ではありません。
逆に、一定の確率でうまくいかないものを実行すること、結果の予測がつかない実行こそが「チャレンジ」です。
毎日自宅に帰ることを、私たちは「チャレンジ」とは言いません。
「チャレンジ」の結果は常に不確かで、やってみるまでどうなるかはわからないもの。
ここでもう一つ。
諦めない、すなわち「ネバーギブアップ」といわれるものがあります。
始めた以上は何があっても一定期間は続ける。
うまくいかないからといって、簡単に止めない。
頑張って、最後までやり通す、という意味。
さて。
チャレンジも、ネバーギブアップも、私たちの人生においては、結構な確率で「かくあるべき」という文脈で諭し諭される言葉です。
ただ、「チャレンジ」×「ネバーギブアップ」、、、この二つの言葉を組み合わせると、話はそう単純にはいきません。
始めた以上諦めず、一定期間続けなければならないのだとしたら、挑戦する対象はどんなものであるべきなんだろう?
よく考えずチャレンジしてしまい、やってみたけど好きではなかったり、重要ではかったりしたものを、諦めずに続けること、時間を費やしてしまうことに、本当に意味があるのでしょうか?
「ネバーギブアップ」な文化は、初めの「チャレンジ」が重い文化ということなのかも?
「チャレンジ」の奨励が、機会(数)を増やすことだとすると、諦めないこと、「ネバーギブアップ」とは単純には両立できません。
自分にとって重要なものに出会うためには、様々なものに触れてみる、「まずやってみる」ことに尽きる。
やってみて、違ったと思ったらやめて次、という繰り返し。
これは見方によっては、諦めの連続。
諦めなければ挑戦の数が減り。
挑戦が増えれば諦めざるを得なくなること。
これもまた大切な真実です。
万人に平等で、最も限られたリソースは“時間”です。
自然人としても、法人としてもこれは同じこと。
挑戦し続けることを諦めず、諦めることにもチャレンジする。
それが、「チャレンジ」×「ネバーギブアップ」の正しい方程式なような気がする、今日この頃です。
株式会社アズワン_小林