フランスでは、親は子供に、学校で友達一杯作りなさい、とは決して言わない。
子供が学校から帰ってきて、「まだ皆と仲良くなれない」というと、母親は「それはあなたが人と違うからで当たり前なの、恥ずかしいことじゃない」と言われるのだとか。
人はどの人とも違うから、自分と違うことを認め合える友達を一人でいいから作ればいい、その友達とだけ仲良くすればいい。
友達を沢山作るということは、多くの他人との馴れ合いばかりの結果で、自分個人という立場がない人間のすることだ、という風に親に教えられるとか。
ちなみに、この結果、フランス人は3人集まると喧嘩ばっかりするというオチ。笑
若干極端な、定番話なのでしょうけども。
一方、私が育った日本では、孤独イコール悪、というイメージが強いものです。
「一年生になったら、友達100人出来るかな♪」と子供に歌わせるのが、我が国のお国柄です。
ただ、そんなお国柄で育ちながらも、私の周りの一部の友人には、そもそも孤独でいるのは、周りに自分を合わせるくらいなら1人でいる方が何倍も楽しく充実してるから、という人もいます。
無駄な友人は不要、無理に友人関係を構築する必要はない。
寂しさと孤独は似て非なるもの。
寂しさとは感情であって、孤独は状態。
故に孤独だからといって、寂しいも哀れも、私は全く感じませんよ、という考え方を”地”で実践している方。
私はどちらかというと、進んで?無駄に?群れてきた人生なので、そこまでスパッと割り切れないです。
だけど、この人の主張、とても理解できますし、ある部分は強く共感します。
友人(関係)の存在の要否を語るとき、一つだけ言えるのは、いわゆる「友達」「友人」という存在が、何のために必要なのか、不要なのか、っていう視点は必要なのかなと思っています。
そもそも必要、不必要っていうのは、自分が○○をするために必要、不必要っていう筋道の言葉なんですよね。
それを整理しないと、なんだか「人生のために友達は必要か?不必要か?」という無駄に大げさな解釈になってしまう。
そして、拡大解釈された要否論に流されて、かえって無駄な人間関係に悩まされたり、逆に必要以上に孤独感に苛(さいな)まれてしまう。
まず、いろんな生き方がある、ということ。
そして、自分はこういう生き方をする、うえでは、こんなシーン(場面)が訪れる。
そのシーン(場面)において、友人(関係)は必要だ、必ずしも必要だとは思わない、っていう風に制限、というかフォーカスしていかないと、何かこう変なことになっちゃうんですよね。
前述した「寂しさと孤独は似て非なるもの、無駄な友人(関係)は不要」、と自らの体験を以って私に教示してくれる人は、私にとって大切な友人です。
このように、仕事の利害関係のない他人に、仕事の利害関係に有益な考え方を示唆してもらうシーン(場面)が私には必要。
だから私にはこの友人(関係)が必要だ、という理屈ですね。
その人にとって、私が友達であるのかどうかはわかりまませんし、あまり深く考えたこともありませんが。
ちなみに、「友達」と「知り合い」の差って何?という人がいるのもあるあるですが、友達と知り合いの差を気にする人は友達が少ない人です。笑
自称、他称によらず、友達が多い人は、知り合いを全部友達に入れちゃう人です。
ちょっとした知り合いも、彼も友達、あいつも友達、そいつも友達だよっていう人、これが友達が多いやつです。
友達が少ない人っていうのは、「あの人はまだ友達とは言えない」「あの人はまだ知り合いレベル」っていう風に考えちゃう人。
よくいう、コップに水が半分入ってたら、まだこんなに入っている、もうこれだけしか入ってない、ってなことにそっくりなんで、「友達」と「知り合い」の差なんてものはあんまり気にしないように。笑い
株式会社アズワン_小林大祐