「命を大切に」
全く異論なく、説得力があります。
でも、命というのは、とても抽象的な言葉です。
私たちが本当に大切にしているものはなんなのでしょうか。
例えば半年の余命宣告。
延命治療を行えば余命があと一年延びます、一年半です、と。
しかし延命治療を行えば家族と会話をすることは難しくなります、とも。
生物学的な命が、命の定義だとするならば、延命することが命を大切にすることになります。
しかし、斯様な選択を皆がするとは限りません。
それは多分、人は生物学的な命と同じぐらい、「生き方」も大切にしているからです。
短い時間でいいから最後は家族と話をしながら過ごしたいと考え、それを家族も医者も、ひいては社会が許容するのならば、少なくとも生物学的な命よりも「生き方」が優先されるうことがあります。
こうして命という単語を出した途端、それについて議論すること自体がタブーだ、危ない人間だと反論されることは多く、議論自体が成立しなくなります。
そうなると、いざというときに命よりも優先される、こう生きたい、という「生き方」の議論もできなくなります。
命は違う言い方をすると、“残り時間”です。
ですから、自身の「生き方」や、生き方の大切な要素である、「夢」とか「志(こころざし)」は、自身の命=残り時間を使うテーマ、ということに他なりません。
もちろん私たちは、生物学的な命を最優先とし、生物学的に命が危ぶまれない社会の一員としての応分の責を負いつつ、自身の生物学的な命を危険に晒すことない日常に生きていますし、そういう日常を生きるべきです。
ただ、その日常の中でしばしば、この命の限りにおいての「生き方」、、、自分はどう生きたいか?生きるべきか?という問いと向き合わざるを得ない非日常的な瞬間が訪れます。
その都度私は、既に自分が“人はただ生きているだけでは幸せになれない”ということを、観念として理解していることにも気づかされるのです。
到底受け入れがたい、命にかかわる悲しい知らせに、一つだけでも強引に意味を持たせるのであれば、これは私に「生き方」を考えさせてくれる出来事であった、ということでしょうか。
合掌。
株式会社アズワン_小林