感謝。
「ありがたい」と思う気持ち。
ありがたいの語源は、“有り難さ”。
そのままずばり、日常的に有ることが難しい、珍しいこと、です。
感謝の背景には、稀少さ、珍しさ、がありそうです。
世の中には、感謝できる人と、感謝することができない人がいます。
ではその違いは何でしょう。
私は、稀少な、珍しい機会にあって発動される、その人の「想像力の差」ではないか、と考えます。
例えば、自身があげた成果に際して、身を置くチームや組織に感謝する人。
彼は、自分が見えていないところで組織を支えてくれている人や役割の存在に想像力が及んでいます。
また、時間を遡(さかのぼ)り、先に機械や信用を積み上げ、繋いでくれた人に想像力が及ぶことも。
反対に、同じ局面でチームや組織に感謝できない人は、表面しか、つまり「自分の」「今の」貢献しか見えてない。
成果の要因を想像する力、想像力が範囲が及ぶ範囲が狭く、浅く、またはそもそも想像するスイッチが作動しないので、感謝する気が起きないのではないでしょうか。
「ありがとう」が言えない人の大半の分類は、いいやつとか、わるいやつとか、そういった物差しで論じるべきではないような気がします。
当たり前のように見えることでも、よくよく想像力を巡らせれば当たり前ではない、ということ。
何事も、広く、深く、知れば知るほどに、当たり前の出来事が、いかに稀少で、珍しい、そう「有り難い」ものかを思い知ること。
このような想像力、言い換えれば思考力が、“感謝の下支え”になっている。
幼いころ両親に、また未熟な若者のころ社会や会社の先輩から「感謝をしなさい」と教えられる本意は、目の前で見えている物事や事象とは別の場所や時間に潜んでいる、目に見えないものを見る「想像力を身につけなさい」ということなのかもしれません。
言い換えれば、「有り難さ」に気づく程度の想像力を働かせるために必要な、知識や教養を身につけなさい、ということの教え。
つまるところ、「感謝をしなさい」とは、広い視野や多様な視点、そして深く沈潜して思考するべきことの大切さを意味していて、要するには「賢くなれよ」ということのような気がします。
ありがとう、と感謝することは「馬鹿」ではできない。
ありがとう、と感謝することができる人に「馬鹿」はいない。
つまりはそういうことです。
株式会社アズワン_小林