「あなたならこれを許しますか?」
こんな、ごく自然な問い。
今はこれに「法的には許されないのでは?」「世間的には許されないのでは?」といった答えの方が多く返ってくるような時代になったような気がします。
そういうことを聞きたいわけじゃないんだけどなぁ、と。笑
「私」は同性婚にも、一夫多妻or多夫制にも(条件付きながら)賛成です。
けれどもこれは、愛する我が国日本では、もちろん「法」的には100%許されていませんし、それを私は十分理解しています。
では「世間」的には、どうでしょう?
世間の皆様全員が、100%許さない、とは言えないでしょう。
私も、皆さんも、まさに意見が分かれるところかな、と。
「私」個人と、私が生きる「世間(他人)」、そして私を含めた世間=社会を統治する「法」。
これら三者の価値観はそれぞれ異なり、ズレがあるという事は当然です。
だから、互いの価値観を共有し、それぞれが堂々と、しかしながら抑制的な態度で突合し、ぶつかりながらも摺合わせることが重要。
その繰り返しによって、改めて自分が自分=「私」の価値観に気づく。
もし「法」的な、「世間」的な許容範囲と、「私」的な許容範囲=価値観を完全に一致させて生きるのであれば、それは個人(私)の価値観を全体に委ねてしまう生き方、ということに他なりません。
「凡庸の悪」、という有名な言葉があります。
「命令だったからやりました。私は従っただけです。」
口頭弁論でこのように繰り返す、ホロコーストに関与した親衛隊中佐アドルフ=アイヒマンの裁判を記録したユダヤ人の政治哲学者、ハンナ=アーレントが、著書の中で示した論、考え方。
第二次大戦中に起きたナチスによるユダヤ人迫害は、決して個人や民族の根源的・悪魔的思考によるものではない。
加害当事者、一人一人が思考や判断を停止し、外的規範に盲従した人々によって行われた悲劇であり、このような「凡庸(表層的)な悪」であるからこそ、社会に蔓延し世界を荒廃させうるのだ、というもの。
映画にもなっていますので、興味があればぜひ一度。(ヒジョーに重いですが、、、苦笑)
もし自分(私)の価値観を、「法」や「世間」の価値観を委ねなければならない状況だととしても、それをわかっていてするのと、自覚なくそうするのでは、ずいぶん違う、ということ。
「法」の正しさや、「世間」の多勢の意見に、自分(私)の価値観を自覚なく一致させる。
そういう“個”、が集合した“全体”、とは、時に恐ろしい力を、しかも静かに発揮します。
個人の悪意の言動には、往々にしてどこか躊躇があります。
一方、多数が正義だと信じる“全体”の、当然のような力の行使には、まったく躊躇がありません。
故に“全体”の正義は、時に個人の悪意をはるかに超えて残酷なのです。
「法」が許さないのか?
「世間」が許さないのか?
「私」が許さないのか?
「法」と「世間」、そして「私」の価値観の違いを認識し、法に遵い、世情動静に揺られながら生きている私が、最近思ったことを綴ってみました。
非常にまとまりなく。苦笑
株式会社アズワン_小林