競争を避ける(否定する)教育を受けたものは、意外にも、やがて社会的な弱者に同情的でなくなる。
高校生の時の担任の先生のお話だったかな?
一聴するだけでは矛盾するようなこの説。
ながら、遡(さかのぼ)れば、自己の啓発、3人の子育て、また大きな組織で多くの部下を指導してきた、これまでの日々にあって、少なからず影響された、論、です。
このロジック、私なりの理解をまとめると、次の通りです。
1. 競争をする機会が少なければ、人間(個体)の「能力の差(=先天的な能力に加えて環境、機会の差)」を認知したり、「能力の差」について考えたりする機会を損なう。
2. 「能力の差」を知らない(触れない)者は、逆説的に、“万人の能力は等しい”もののだと錯覚し、物事の正否や勝敗を分ける主な要因を、「努力の問題(差)」だ(のみだ)と考えてしまう。
3. あらゆる結果を努力の問題だと捉(とら)えるようになると、結果の出ない相手のことを、“努力が不足している者”と判断してしまい、彼を助ける必然性や主体性が生まれにくくなる。
要するに、結果が出ている人は、努力をし(てき)た人。
そうではない人は、努力をし(てきてい)ない人。
競争経験がない人ほど、こう考えてしまう。
なんだか皮肉なお話ではありますが。苦笑
小学生からサッカーをやっていた私は、とにかくとても足が遅く、足が速くなる方法も相当試したし、人並み以上に練習も重ねた=努力もしました。
けれど、仲の良かった理科実験クラブの友達は、いきなり走ったら信じられないくらい足が速い子で、運動会の50m走では、軽く7-8馬身離され、悔しい思いをしました。
逆に、私はあまり勉強はしなかったのに、同学年では、ほぼ毎日のように塾に通っていた、いわゆる「ガリ勉」君と双璧の成績でもありました。
同様に、同じクラスには身長が高い友達、力が強い友達、字や絵が美しい友達もいました。
そして、あの頃は今よりもわかりやすく、何かしらの形でそれぞれの能力=個性が相互に比較され、結果、優劣を自覚させられていたような気がします。
身体測定結果の公開や、クラスの背の順並び。
全員参加の徒競走での順位付け、組体操や騎馬戦の乗り役、担ぎ役といった役割分担。
そして習字や写生作品が掲示されると、優秀者には金銀佳作各賞の札が。
これらのイベントで明らかにされる、個々人の“能力の差”は、全て小学生の頃のお話です。
ですから、どう考えてもあの頃の優劣の主因は、「能力の差(=先天的な能力に加えて環境、機会の差)」であって、決して「努力の差」で決まっているわけではなかったのではないでしょうか。
私達が持って生まれた「能力(=先天的な能力に加えて環境、機会)」は平等だ。
皆、等しい地点からのスタートだ。
だからスタートしてから以降の結果は、概ね、本人の努力次第。
何だか、こういう話の方が大勢(たいぜい)で、正しくも聞こえそうだけど、私にとっては少し気味が悪い。
そう、ロールプレイングゲームで、自分よりレベルが高い人を見たときに、「彼はひたすらに自分よりも多くゲームに時間を費やしたんだな。」と単純に評価しているようで、です。
人生は、単純なゲームではない。
競争をせずして、「能力の差(=先天的な能力に加えて環境、機会の差)」を知ることはできない。
競争をせずして、「能力」は決して平等ではない、ということを知ることはできない。
「能力の差」「能力の不平等さ」を知らない者は、きっと本当の努力はできないし。
厳しい状況や、「能力の差」「能力の不平等さ」を知らない者からは、困難を逆転するための知恵や強さは生まれない。
そして、「能力の差」「能力の不平等さ」を知らない者は、他人の「能力」=個性に興味や関心をむけられない。
だから、時として、本当に助けてあげなくてはいけない人の痛みもわからない。
なにより、自身もまた、いざとなった時に「助けてください」と周りに懇願することもできない。
皆のスタート地点は等しく、道程は本人が努力するしかないのだ、ということこそが、何か薄気味悪い“悪平等”。
要するに、競争は勝者と敗者を生むかもしれないけど、その過程では、勝者も敗者もそれぞれが様々な学びを得、共有する。
そして、競争によって経験する勝敗体験こそが、社会で生きるために必要な強さと、同時に社会や社会に生きる他者に対する優しさを育(はぐく)む。
競い、競わされ、時に周囲に誤解を与えながら競わせてもきた、自身の半生を振り返り、ふとそんなことを思っています。
株式会社アズワン_小林