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配慮“出来すぎる”人たちの憂鬱

配慮“出来すぎる”人たちの憂鬱

人に気を遣う、つまり人の気持ちに配慮できることができることは、とても優れた能力だと思います。

ただ、それがあまりに染み付きすぎていて、逆に言えば「人の気持ちを考えないことができない」から苦しむこともあります。

 

自分が相手の気持ちを考えるように、相手にもまた自分の気持ちが考えられている、と考え、考えすぎてしまう。

そう気持ちの読み合いが過ぎて、複雑に、高度に人の気持ちを読みすぎる人は、時に生きづらい。

相手の行(言)動一つ一つを見ては、自分がどう思われているかが気になり、疲れてしまうからです。

 

私が愛する晴(はる)や夏菜(なな)=ペットに触れていてなぜ癒されるかというと、一つには彼らが「まず私の気持ちを読む」という接し方をしないからです。

不思議なものです、相手がしたいようにしているから、こちらの負荷がない、ということ。笑

だから、癒されるのです。

 

 

一対一の場面であれば、人の気持ちを考えられることはとかく有利に働きます。

一方で集団になると、それぞれの人の思惑と、利害調整が複雑になり、人の気持ちを考えすぎる人は苦労します。

 

「あちらを立てればこちらが立たず」の場面で、黙るか、空気を読むか、なびくか、配慮しすぎてコンセプトがなくなるか、、、ごちゃ混ぜになって整合性がとれなくなることもしばしば。

不機嫌な人を見ると、何か自分が悪いことをしたのではないか?機嫌を良くしてもらう責任が自分にあるのではないか?などと考えてしまう。

不機嫌になる人が、それを知っていて周りに気を遣わせ相手をコントロールしていくことだってありますからね。

 

 

そうならないためにはどうすればいいのか。

 

まず、自分にとって“大事なものを絞り込む”ことだと思います。

大事なもの以外は、実はなくなっても大して問題はないと知ること。

 

雰囲気に流されそうになったら一旦停止し、落ち着いて何が大事なことかを整理をする。

作法としての「相手の気持ちに配慮」は大事ですが、配慮だらけの合理性のない意思決定にならないように気を付けなくてはなりません。

 

そもそも相手に合わせることだけが、相手の共感を生む、仲良くなれる方法ではありません。

相手にとってのメリット(デメリット)と、仲が良いこと(悪いこと)とは別物なのですから。

  

配慮「出来すぎる」人にだけにしばしば訪れる憂鬱。

経験ある皆さんは、どうぞご注意を。

 

株式会社アズワン_小林