「体育会出身」
大学で、所謂(いわゆる)学校の体育会に属する部活で汗をかいていた人たち。

私たち就職氷河期なんて言われた時代から、ある言葉、というかカテゴリーです。
私もその一人です。
野球部とか、ラグビーとか、何故大学の「体育会」を出たタレントが、日本の企業、概ね大企業といわれる会社の採用でしばしば有利となるのか。
縦社会にもまれ従順だから?
チームプレーに順応できるから?
核、はちょっと違うと思います。
ここからは、あくまで僕の持論です。
何の競技であれ、もともと能力のある選手っていうのがいます。
彼はコーチや監督に指導されさらに成長し、活躍の場所が約束される。

一方の彼。
そもそも大学の体育会の部活を選んでいるということで、勿論その競技の能力は一定以上ある。
自分もその競技が大好きだってことでは、能力の抜けている彼には負けてはいない。
でも、頑張ってたどり着いた同じ場所で、裏方として能力のある彼、彼らを支える役目を追う。
生まれつきの能力は平等ではなく、生まれつきの能力(の格差)で決まることが間違いなくある。
その競技のレベルが高く保たれている場所ならば、それはなおさら。
努力では、到底その差は埋まらない。
そもそも能力のある彼もまた、自分の能力が加速度的に成長する実感を楽しむように努力するから。

有り体(ありてい)でいえば、上には上がいる、ということです。
残酷ながら、実社会においての真実、この世界の当たり前。
これを、競技人生、所属した部の活動を通じて、思い知っていること。
その部において、自分がどの役割であったかは別にして、能力と機会の不平等さをちゃんと受け入れる順応性を持ってること。
これが、20歳も過ぎて、ある程度高度なレベルの競技(部)=体育会に身を投じてきた者、体育会出身の強み、その「核」なんだとおもいます。

それを企業は買っていた、と。
能力と機会の不平等さをちゃんと受け入れる、ということは自分の居場所や、自分なりの戦い方について考える癖もついていますからね。
なので、これまで企業採用の場において、「体育会出身」は間違いなく一つのタグになっていました。
まぁ、これからの社会と会社における、このタグの相対的な価値についてはわかりませんよ(苦笑)
そして今日の話は、最近話をする機会があった大学生と飲んだ場で話した、あくまで私の持論です。
株式会社アズワン_小林大祐