「わからない」
「自分がわからないということをわかる(自覚する)」
これは、あらゆる学習の入り口です。

わからないことに向かい合い、自ら考え、悩み、答えを導いては間違え、修正する。
この過程を経て、「わからない」ことが「わかる」。
つまりわからなかったことが、私たちの知識となる。
そして知識にたどり着くための、あらたな知恵がつく。
私たちは、インターネットの、そして検索エンジンの登場以降、久しく「Web検索」という手法を頼りに、この「わからない、から知識にたどり着く過程」を補助してもらってきました。
Web検索によって、それまで本や文献といった紙の一次資料上の情報や、様々な場所や時代に散在していた誰かの知見や経験、ノウハウを、「検索ワード」によって容易に手に入れることができるようになった。
情報は民主化され=誰もが必要な情報を一定平等に手に入れることができるようになった。
このことで、私たちの学習の効率は、飛躍的に上がったのは間違いありません。

ただ、、、考えればいまよりほんの少し前のことなんですが、、、このWeb検索が主流の時代には、サイトごとの情報のブレや古さというものの存在に気付くこともできました。
この違和感が、学習過程においける摩擦となり顕在化することで、私たちは、自身が検索したどり着いた(入手した)情報の不確実さに気づくことができたのです。
で、今は生成AIの時代、です。
AIは、私たちの問いに、一瞬で綺麗に整った「完成形の文章」を返してくる。
一定もっともらしい返答。
一見矛盾なきストーリー。
わからない、問う、刹那、あっという間に“それ”を返されると、多くの人が勘違いをしてしまう。
「自分のわからないことへの問いへの答えを得た」と。
実は、わからない事柄をわかった、真に理解したか否かに関わらず、「どこか見覚えがある答えに納得」の状態になったばかりなのに。
これが今AI時代のビジネスの現場で散見される事実であり、最も恐ろしい点なんです。

AIは、「私たちがわからないことを正解に変えてくれる」わけでは、決してありません。
「答えがない状態を、答えがある状態」へ、瞬時に、美しく、強制的に変えてしまうだけです。
勿論、その答えは時に誤りでもあり、またある一つの答えでしかない。
が、そんなことをまるで感じさせないんです。
特に、考えることを放棄したひとにとっては、その回答のスピードも、根拠づけも、論理構成も、無条件で「正解」。
だからこそ、はっきりと自覚しておくべきです。
AIに問う、その答えを得たときに、自分は本当に「わかったのか?」と。
そう一度、問うてみてください。
今度はAIに、ではなく、自分の頭に。
体と心に、です。

冒頭述べたように、わからない、その自覚こそが学習の入り口。
しかし生成AIは、私たちの「わからない」の空白を、理由、具体例、結論等々が整った文章を即座に生成することで、パッと埋めてしまう。
それが、本来の学習の入り口を奪ってしまうのです。
AIの即レス回答を得ると、多くの人は、内容の真偽を検証することなく、わかった、答えが出たと錯覚してしまう。
その先の学習を放棄してしまう。
AIが作った数字や情報が、企画書や議事録へとコピーされるたびに、全ての資料がなんとなく整っていく。
内容は薄い正解=間違いではない答えのインフレが蔓延しているのが、今のビジネスの現場です。
さて。
AIの返答を見る前に、自分の考えや判断を、ちゃんと残しておきなさい。
自分がどう考えているか、何を確認すべきかを、まずAIより先に言語化しなさい。
AIにの返答を得たのであれば、その流暢な回答に、無条件で引っ張られないようにしなさい。
そして同時に、「あなたの回答が間違っている可能性は?」「一次資料で確認すべき点は?」とこそ、AIに尋ねてみなさい。
わからない、という状態は不能でも失敗でもありません。
わからない、その自覚が学習の入り口です。
つまり、「考えることや調べることが必要な場所を正しく見つけた」と評価する瞬間でもあります。
無知な君よ。
君の無知の自覚の機会を、「知りて一歩目」を簡単に捨てるな。

本当の知性とは、「わからない」と言えること。
言い方を変えれば、AI時代において人間が守るべき能力=知性は、「自力で全てに答える能力」ではなく、「どこまでわかっていて、どこからがわからないのかを区別する能力」こそ。
それが、この先の「AIを使って無限に「わからない」を消すことができるの時代」に不可欠な、人間の分別、自律した判断力です。
あなたたちのAI、その使い方、提示する成果物が否定され、揶揄されている理由は、このことに無自覚であることに原因があります。
昭和でいえば、猫に小判、犬に論語、豚に真珠、馬の耳に念仏。。。
令和は?
そう、「○○にAI」。

株式会社アズワン_小林大祐