毎度の、サラリーマン時代の話。
私が新しい企画を想起し、練って、“出す”。
すると、何も“出していない”人は、言う。
「リスクがある」
「前例がない」
「もっと現実的に考えたほうがいい」
それが本当に自分の企画を良くするものであればありがたい。
しかし、残念ながら私の経験では、十中八九、それは発言者のブレーキ役の自己演出。
まぁ、そう思って、彼らを蹴散らし、相当好き勝手やらせてもらいましたが苦笑

SNSで例えれば、わかりやすいのでは?
1つの、一部分の、「そこだけ」なら、誰でもすぐに拾える、すぐに刺せる、すぐに叩ける。
新しい企画を出す人、つまりあの頃の私も、今の君も、失敗するリスクを背負っています。
批判するだけの人や、減点するだけ人は、失敗しない。
なぜなら、自分では何も出していないから。
彼らは、つまづく場所も材料も持っちゃいない。
作る人は、間違える可能性を引き受ける。
批判する人は、間違えた部分だけを見つければいい。
この構造において、批判者は、かなり安全な位置にいる、安全な場所から叫んでいる。
そして、時に安全な位置からの批判は、必死になって作り上げた人よりも、なんとなく冷静に見える。
だから厄介。
また、同時に批判は、その人にとって自己演出にもなっていたりします。
彼は批判しているようで、実は自己紹介をしている、その類(たぐ)い。
相手のために言っているようで、実は周りの観客に向かって、必死になって自分の賢さをアピールしている、例のあれ。苦笑
全ての批判が同じ価値を持つわけではないのです。
知識を強くする批判もあれば、批判者を賢く見せるだけの批判もある。
後者は彼のポーズでしかありません。

今やお店でご飯を食べれば、簡単に食べログレビュー欄で点数をつけることのできる時代です。
サービスを評価する、商品に文句を言う、店員の対応を採点する。
もちろん消費者の声は大事。
だが評価する側に慣れすぎて、皆簡単に“裁く側の全能感”にはまってしまってはないでしょうか?
自分は、料理もサービスも提供していないのに、評価はできる、点数はつけられる、文句は言える。
この感覚が、SNSという道具に乗って蔓延した結果、今や社会全体が、何かを出す、生み出す人よりも、裁く人を、指数関数的に増やしてしまいました。
簡便な批評によって、知性なき、危うい全能感に蝕まれてしまう時代。
ちなみに、私がSNSをやらない、いや、怖くてやれない理由の一つがこれです。
まとめましょう。
大きな組織にその身を置くが故の、昨夜の君の悩み。
そう、自身で何かを生み出すことができる、君へ。
自覚してください。
あなたの周りには、君が創造したものの一部を、端を指差して批判し、笑うことができる人が取り囲んでいます。
だから、雑な批判には、こう毅然と向き合いましょう。
あなたたちのその批判に、価値などあるものか、と。
君よ、批判を恐れず、未来を自分で生み出せる人であれ。

株式会社アズワン_小林大祐