私たちはつい思ってしまいます。
「勝った」、「成功した」、あるいは何かを成し遂げた人間が上。
「負けた」、「失敗した」、あるいは為すべきことに到達できなかった人間が下。

そもそも、物事の勝敗、成否、評価やプロジェクトの成否といったものは、あらかじめ決められた「採点基準」の中での結果です。
そこにある基準=狭い枠組みの中での、しかもそのたった一度の結果は、決してその人の能力の限界や、人間としての価値の全てを証明するわけではありません。
言い方を変えましょう。
仮に、負けたとされた人間の反対側に、勝者が生まれたとします。
勝利や成功、そこにも罠があります。
一度勝利=成功した、その評価は、その者を「勝者という役」に縛ります。
彼は、その成功法則を捨てられなくなり、「分からない」「できない」と弱音を吐けなくなるかもしれない。
そもそも以降の失敗を恐れて、負けそうな勝負を避けたり、耳の痛い意見を遠ざけるようになったり、気づけば自分の可能性や動ける範囲をどんどん狭めてしまうかもしれない。
勝利は、そこから勝ち続けることは、時に自分が参加しているゲームの全体像や、本来の目的を見えにくくしてしまう、そういう罠、リスクがあります。
逆に言えば、ここに「負けたこと(にも)」の価値があります。
「負けた。」「失敗した。」
その瞬間、猛スピードで流れていた時間が、一度止まります。
これまで当然だと思っていた「前提」を疑う機会が生まれます。
その時が、ゲームの盤面の中にいる自分を、そのゲーム自体を、ゲームの流れを、「外側から」見つめ直すことができる機会なのです。

もちろん、ここには一つ絶対的なタブーがある。
それは、敗北を、捻じ曲げて解釈すること。
「本当はあんなもの欲しくなかった。」「今回は運が悪かっただけだ。」「相手が悪かった。」等々、これは禁じ手。
要するに、参加したゲームが終わってから、別の採点表を持ち出して自分を慰めるのはNG。
それは、その勝負の外側に出たことにはならないからです。
大切なことは、現実の敗北を、失敗を、自分のプライドよりも“先に置くこと”です。
「あんなに欲しかったのに、今回は自分の力不足だった。」
「こうすれば到達できると思っていたけど、自分の判断が間違っていた。」
そうやって、痛みを伴う、負けや失敗という事実を、ごまかさずに認めること。
そこを飛ばしてしまう、ただ美化されただけの負けや失敗には、何の意味もありません。
負けた、しくじった、その事実をそのまま受け入れた上で、自分自身に問いかけてみてください。
負けやしくじりの事実の前で、思考を停止してはいけない。
ましてや、負けやしくじりの事実を、無かったことにしてはいけない。
負けた、しくじった、それ踏まえて、次の一手を自分自身で、そこに至るまでの経過(プロセス)を「選び直す」こと。
それが、負けや失敗の果実です。

勝った人や、成功した人は、結果や成果をその手に得ます。
負けた人や、失敗した人は、結果と自分との関係、つまり経過(プロセス)を新しく選び直すことができます。
私たちの未来や、生き方は、その時々の単純な「勝敗(表)」だけで決まりません。
だから「うまくいかなかった」という一つの結果に対して、必要以上に自分を責める必要もない。
その負けや失敗を糧にするということは、目の前の勝ち負けという枠組みの外側から、経過(プロセス)を見つめなおすこと。
そのとき、あなたはこれまで以上に強く、しなやかに、そして自由になれるはずです。
株式会社アズワン_小林大祐